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赤ん坊 白ん坊
最近朝の日課で雪おろしをしている。天気は晴れたり雪になったりする。そういう天気を「一雲荒れ」というらしい。読み方は、ひとくも。

なぜだか雪おろしは楽しい。最近は特に無心で何かをしたいので、昔ならば苦痛でしかなかった肉体労働も、単純で少しずつ時間をかけなければできないようなところに魅力を感じるようになった。楽は出来ずに、スコップでせっせとやるしかないのである。そしてそんな作業中は無心にもなるけれど、ぼうっと考え事をしている方が長い。そこで今日はこんなことを考えた。

とりあえず今何が一番欲しいだろうかということを。

雪下ろしには少しださいスキーウェアを着て、手袋をして、寒くない格好をする。だけど、どうしても家にあった長靴だけはとても寒い。冷たくて、足が霜焼けになりそうだ。

で、そんな時に一番欲しいものは何だと聞かれたら、CDでも、本でも、金でもない訳で。

東京に住んでいれば別に生活に困るものなんてそうそう無い。寒さだって今年は暖房なしで過ごせたわけだし、飯だって食いたい時に食える。けれど一度外に出て、例えば僕の場合は雪下ろしだったわけだけども、どうにもそれをしないと生活が出来ないとか、生活に困る、生きるということに密着したところに立ってみると、やはり欲求というのは一番近いところから起こるものなのである。さらに言えば、その欲求をわざと満たさないということが欲求をそこで止めておくと言う事になると思う。

「現代の人はどうにも物欲が多いようだ。」と書かれている本をどこかで見た気がする。しかもそれを言ったのはもう何百年も前の人だったと思う。何百年前の人も物欲が多かったそうで、どの世にいても、きっと欲求なんて限りなく、満たしては別のものが現れるようなものだと思う。それを続けることはきっと何の疑問も無い人が殆どだと思う。どれだけそこに疑問をもつ人がいることか。そしてその疑問をもったところで、なぜいけないかということすらはっきりしない気もするのだけど、僕が思うに欲求が多すぎることが、次から次へと余計なことを考えさせる原因ではないかと思う。結局欲があったために、最終的には戦争も起こるわけだし。ならば欲を捨ててしまう。というよりも最も生活に近いところに生じる欲を止めておくことが何も考えないことにつながるんではなかろうか。

昔。物が無い時代には無ければしょうがないで済んだことが、今となれば生活の必需品になっている。なければ雪の日だって、靴下も履かなければ、草履だけだったのである。今からみたら雪にサンダル。あってしまえばありえないけれど、無いのだからしょうがないというか、冷たい冷たいと思うことしか出来ないのである。冷たいと思っていればいいと思う。しかしそのうちあったかい靴が開発されて、そこで足部門の欲求は解決されてしまった。そしたら次は耳が冷たいのでそこをどうにかしようと。全部満たされたら、じゃあCDでも買おうかと、それにはお金がいるからお金を稼ごう。お金を稼ぐために、まずは株を不正に取引してと。こんな具合で、日本だけでは土地が狭いから中国の土地を取りに行こうと。

余計なことばかり起こる。

しかし便利なものを知っているところからでも、我慢をするということは可能なのである。寒い寒いと思っていれば済むのである。寒い寒いがあるから余計なことは考えない。という生活。便利になることを知りながら、それをしない。日々の生活の最低限度を決めてしまって、その上を望まない。すると生活をすると言うことの幸せや、余計なことを考えない自然に溶け込む気がする。偉い方は皆赤ん坊の感覚を大切にしなさいと言う。赤ん坊ほど素直なものはなく、腹が減ったが腹が減ったで、眠いが眠い。見える物は全てがおかしい。それ以下でもなければ、それ以上でも無い。知りはしないが、何も考えていないだろう。一番自然に近い人間。

先日、新潟出身の禅僧である良寛さんの里を訪れた。良寛さんの書いた書を展示している記念館や美術館、そして彼が20年近くも住んだという山腹にある6畳程度しかない五合庵。なにがすごいというに、この人の生活ほど超越したものはないと思う。冷蔵庫が無い時代であったとはいえ、彼の食事は托鉢で得たもののみによって、しかももらったものの一部分でも粗末にしてはいなかったようだ。食べ残しや、悪くなったものでも、なんでも醤油に漬けておいて、それをおかずにご飯を食べたそうである。味はひどかったらしく、お客に来た人は食えたものではなかったと言っている。それはそのはずで、その醤油漬けの鉢には蛆がわいていたそうである。それを良寛さんは「自然に逃げていくものをわざわざ口に入れる必要はない」と言っている。皿にとれば、自然とどこかへ行ってしまうから気にしないんですと。そういう問題なんですと。良寛さんは。
悟られている人にも、悟りの深さでは違いがあるそうで、そういうところから言うと完全にこの人は仏みたいだ。

それともうひとつ。今ロシアでは寒いところで−55度だそうで。
そんなところになんで人が住んでいるんだろう。しかしそんなところでも生活はできるということだし、生活してみないとなんとも言えないところはあるけれども、少し寒いなんて程度ではない分、どの人々も日々が生活に密着している。

今一番欲しいものはと聞いたらなんと答えがかえってくるんだろう。
| | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
西洋哲学と東洋思想の電話
今日は久しぶりに、一年半振りくらいに、一歳の子供を持つ片親お母さんの友達と電話をした。別れた旦那様とももう一度生活を始める事が決まっているそうで、その反面、姉からは縁を切るとまで言われたそう。なにやら頭では理解できなくなった所に、偶然僕への電話をしたらしい。

彼女と旦那様は哲学的な考え方を生き方にしているらしく、偶然にも電話をかけた相手の僕は哲学とは反対側に突っ走る、禅を生き方にしているので面白い。「哲学的思考 対 無心の側からの話」という構図になった。

旦那様は嘘の無い生き方を信念にしているのだそうだ。だから自分がしたくない事は嘘になるからという理由で、義父への挨拶もしなかったそうだ。で嫁さんのほうも割と頭で考えようとする。実際は彼らが哲学的な考え方をしているのかって言うと疑問が残るけど、自分たちがそう言っているからそうしよう。要するに頭で、そして言葉で考えようとして、いつももめ事が絶えないそうです。

電話をしてみて頭で考える人とは話がしにくいなと思った。ただ嫁さんは相談するくらいだからまだいい。旦那様はもっと話しにくいんだろうなと思う。自分の主張を持っているとどうしても主張をしたくなるものである。相手の主張をよく聞く事を知らない。相手と自分の意見が違うと思えばすかさず自分の主張をするものである。電話をしていて自分はこうだったなと懐かしい気も起こった。一応軽くだけども僕も哲学や、精神分析、西洋思想ものの本が好きだったので、どっぷり浸かっていたときは飲みに行って自己主張をよくした思う。大人のしゃべり場だな。しゃべり場を嫌いと言う人がよくいるけど、実は自分も大人のしゃべり場をやってる人は、多いんじゃないの。話がずれた。

僕は自分を無くす事、そうすれば主張なんて無くなる事。それを目指していたら気分なんてあまり無くなってだんだんと丸くなって柔らかくなってきた事を話した。結局相手の気が済むまで話せばいいと思って長々と電話をしたけど、哲学的な側から禅を理解するのは不可能だから話は進まなかった。そして頭で考えたら果てしなく問題が多いんだなとも思った。一時間話してもまだまだ悩みが多いみたい。大変だ。とにかく自分も哲学をかじったけれど何にも変わらなかったし、むしろ知識や主張が多くなって本当はどうでもいいことなのに、人としゃべり場をして言い負かせたいなんて気持ちがあった気がする。そんな気持ちがあるんだったらそれはやったらいいと思う。でとことんやってから東洋思想を見た時に、ああ意味なかったんだ。って事を実感できればいいのだと思う。本当に哲学者になってしまうには、才能がいるし、そんな人は珍しい。日本人として生まれた時点で東洋思想的な土台があることは、本当によかったなと思う。僕も禅をやってみて変わったし、もめ事なんて本当に無くなってきた事を伝えた。そしてそれは主張ではなくて、そういう考え方をしなさいとに書いてあったから、実践したら実感したまでのことだった。

賢いと堅いという字は似てる。賢い堅そうな頭は、格好よく見えるし、何でもはね返す。逆に、ふにゃふにゃでまるい頭は不格好だ。だけど何でも飲み込んでしまうような底なしの深さがある。
| | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
耳で見て、目で聴く
最近ブログを書く事に迷った。

禅では「耳で見て、目で聴け」というが、これが最近こういう事じゃないのかと思った。それは耳が聴こえない人、目が見えない人がしている生活が本来の生活であると。

本来の生活というものを考えると、パソコンは必要がないし、本も、音楽も本当は必要じゃない。それをどこかの山に入って一生を過ごせば悟りなんてものも必要じゃなく、ただ欲の無い人間として幸せかもしれない。しかしパソコンはとても便利だし、本や音を聴く事はとても楽しい。ここで生活をするかぎりには無くてはならない気がする。しかしそれは最低限生活に必要な分だけ使用すればいい。実際インターネットで必要な情報を調べる意外の事は暇つぶしに過ぎない。ただ自分が伝えたい事を伝える手段としては無益じゃないだろうと思って、ブログは続けようと思う。

話は少し変わって、先日会社に入った友達にあったけれど、ゆとりのない生活、本来の生活からはとことん離れた生活をしている人というのは不満が多いらしい。不満が多い人に囲まれて仕事をするからとても悪循環だと思った。しかし社会人でなくても、本来の生活を取り戻そうという気がなければ心の余裕も無くなる。
日本人が日本人の心である禅を理解していればそんなこともないだろうと思う。たぶん理解する以前に知識も無い人が殆どだし、友達にも禅を勧めてみたけれど、興味がないから特に反応もなかった。しかしこれが現状なんだろう。武士道や伝統芸能には興味があるけれども、それの元となる禅を知っている人はどれだけいるんだろう。


<禅の書>

book弓と禅 改版弓という日本の伝統芸能を通じてドイツの哲学者が禅を理解していくドキュメント


book禅 鈴木大拙
| | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
自然と感覚について
きっと手は出さないだろうと思っていたブログも、進められるがままに始めなんだかだで楽しい。文章を書く事もいいし、なんでもない個人の意見をどう思って眺めるのかしらんと昭和風に想像するのもまた一興。
さて。かれこれテレビを見ない生活をしていたのだけど、面白くないやつは見なければいいということに気付いた。なんとなく昔は興味があるものを見るというよりは、だらだらする時間と映像を見ていたが、ご飯の時につけてみてぐっとくるやつを選んでみるようになった。

そんな中で、今日NHKでやっていた世界の小学生が手つかずの熱帯雨林で生活するという番組。二つのことを感じた。
まずは自然。木は枯れ、葉っぱを落とす。すると虫やバクテリアが分解する。そして雨が降るとそれが養分となって根っこに吸収される。とすると、木は自分で枯れているんだなと思う。木だけじゃなくて分解する虫や、それを食べる動物、、、それが全部つながってくる。要するに生態系という事なんだけど、人間は自然がなければ生きていけないが、自然は人間がいなくても生きていける。
もう一つ。女性について。番組に出ていた女の子をみているととても自然だなと思う。感覚的に物事をとらえている。言葉におきかえる以前にわかっている事があるように思える。対照的に男の子は小学生でももう頭で考えるようになっている。理論的になり、感じることのできる部分が女の子に比べると少なくみえる。優れたデザイナーに女性やゲイが多いように、女性的な人はとても感覚的だ。対照的に文字を使う小説家や思想家、理論的な政治家やIT企業の社長などは男性が多い。別にゲイじゃなくても男性的で感覚的なひとはいるし、逆に女性の、、、もあるが、多くはない。

結局はまたの話に持ち込もうと言う魂胆で話を進めたのだが、は頭で理解できるものではない。自然に学ぶ事が多いと言う。要するに感覚的という事と自然のつながり。そして、全部が同一にならなければいけないとも言う。だから木にもなれるし、土にもなれる。動物にも、他人にもなれる。しかし私であると言う。矛盾だらけのだけど、理由は世界を一元でみているという事で、善があって悪がある、生があって死があるという二元の世界ではみていない。全てが同一で何も無いところに全部があるという。難しいねえ。だけど死への一歩を踏み出したい。で、生き返りたい。

おすすめの禅の書は、鈴木大拙選集
| | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
刺激が消える年齢
少しおもしろい話を聞いた。ネタにしていいかな。

歳をとるごとに刺激は減って、年々一年を過ごす時間が早くなるということが、実証されているらしい。科学で。

なんとなく一日を過ごすと、確かに何にも感じない。たぶん何かを感じること自体がとても曖昧で、子供は感じる事を感じるけど、大人ってのは刺激が減り、なんとなく、複雑な事物が絡まってそれを頭でああだこだと考えさせるものを感じるというような気がする。例えば絵をみて、この色合いがどうだの、バランスがどうだのを美しいという。子供は楽しいを頭で考えないし、今日はなんにも感じなかったなとも思わない。別な面をみると、子供は疲れ知らずにみえる。どんなに一日中遊んで走っても楽しい時間に疲れなんてみえない。たぶん走る事や疲れる事を考えないから。だけど大人はそんなことを頭に入れるから少し走っただけで疲れる。時間も同じで、子供は時間のことなんて考えない。だから一年が早かったとも思わないし、思ったとしてもとても曖昧なことのように思える。

感じる事を忘れてしまった私には、子供や動物がうらやましくみえる。ただあるものを感じて、そこに内在するものなんて考えない。そこには差別だってないし、偏見もない。

また禅のような話になってしまったけれど、刺激の消えてゆく生活をするよりも、子供のような大人になった方が本当の人間のように思える。
| | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
禅について
急にだるくなって2時間程寝たら、今度は寝れなくなった。寝れなかった時間にずっと書きたかった禅について書ける気がして、気分をかえるついでに書こうと思う。

まず禅というのは仏教からきていて、中国と日本で発展したもの。日本では臨済宗と曹洞宗が禅宗にあたる。ちなみに日本の伝統芸能などは禅の悟りに通じている。知識ではなく肚でしか悟る事が出来ないという。西洋の哲学とは全く逆の方向へ向かうもので、哲学は知識で、禅は感覚でといったら分かり易いと思う。基本的な事はこの辺にしておいて、本題に入る。

禅にはまってから何でも禅に即して物事を考えるようになった。そして今日は機嫌について考えた。たいていの人には機嫌がある。だから機嫌が悪い人と接するのは嫌だなと思う事がある。そして、過去に嫌な印象がある人とは接したくない、嫌いになってしまう。これを客観的にみると(禅に即してみると)、禅には時間の概念が無い。だから過去というものもなければ、未来というものもない。今があるだけ。それがそのままだから愛することができるということ。例えば葉っぱがあって、それが後々土に還ってその土で育まれた食べ物を食べれるからその葉っぱを愛せるのではなくて、葉っぱが葉っぱだから愛せるということ。これを人に当てはめても同じ事で、嫌いになった過去は無いし、今後利益をもたらしてくれるであろう未来もない。今その人がその人であることを知らなければならない。私も知識では理解してるけど、実際に頭でやろうとしても難しい事だと思う。悟りを開いた人じゃなければ難しい。だけど、そうやろうとすることで少しは自分もましになり、嫌だなと思う事も嫌だなと思う事ができる。悟りは開けても開けなくても禅というのは人を少しでも良くする道をもっている。

ちなみに私が禅にはまったのも故鈴木大拙氏の著書に出会ったから。何気なく手に取った『禅と精神分析』という本で、フロイト派のエーリッヒ・フロムが禅の精神を分析しているというもので、どちらかというとこちらのほうに興味があったのだけど、鈴木大拙氏の文章がとても面白くて、それから氏の著書を見つけただけ買いあさって読んだり、京都の臨済宗本山の妙心寺へも行き、一泊して禅堂の生活を体験したりした。禅というのはとても日本的だし、日本人の心がある。だんだんと日本の心が忘れられている中で、若い世代が守っていかなければならないとも思う。きっと先生の本に出会い、心動かされる人は多いと思う。哲学のやりすぎで頭が痛くなった人はニーチェみたいに発狂する前に、禅というものもみてみるといいと思う。

参考文献
禅と精神分析』鈴木大拙・Eフロム、『禅とは何か』鈴木大拙、『東方的な見方』鈴木大拙、『禅問答と悟り』鈴木大拙、『禅堂の修行と生活・禅の世界』鈴木大切、『弓と禅ヘリゲル




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